現在順調に運営をしている企業であっても、ここまでくる道のりでは様々なことがあっただろう。どのような苦労や失敗を乗り越え、またどこに成功要因を見つけたのか。当業界のリーダーらから、それぞれが学んだことについて披露していただく本連載。第39 回目は、ピラティスメソッドジャパン株式会社代表取締役の櫻井淳子氏にお話を訊いた。

 

妊娠・出産での不調をきっかけに
ピラティスと出合う

今では正当なピラティスの後継者として、日本に本格的なピラティスメソッドを広めていっている櫻井淳子氏。物理化学の研究者だった櫻井氏がピラティスと出合ったのは、妊娠中から体調を崩したことがきっかけだった。結婚を機に静岡県沼津市に移住して知り合いも少ないなか、なんとか状況を変えたいと、産後、DVDを見てピラティスを始めた。3ヶ月ほどで劇的に体調がよくなり、ピラティスの素晴らしさを広めたいと考えるようになった。

「もともと運動が苦手なうえに、地方に住んでいて、0歳児を抱えていました。夫も忙しかったので時間がなく、専業主婦でお金もありません。体調がよくなったからといって、ピラティススタジオに通ったり、インストラクターの資格をとったりすることは不可能だと考えていました。でも、子どもの年齢や、居住地、お金の問題など、いくら悩んでもすぐには変えられません。子どもが大きくなってから、お金に余裕ができてから、と考えていたら人生が終わってしまうと気づきました」

すぐに解決できないからこそ、今やるしかないという思いで、ピラティスインストラクターの資格をとった。しかし、教えられるようになったものの、まだ小さかった子どもを家に残して、スポーツクラブで働くことは難しく、自分の責任でできる公民館でレッスンを始めることにした。

「スポーツクラブで仕事をすると、子どもに何かあったときにレッスン代行を探さなければいけません。昔は人と話すのも苦手だったので、知っている人もいない土地でほかの人にお願いできると思えませんでした。とにかく必死でブログを書き、公民館を借りてレッスンを行うことにしました」

その後、沼津市にピラティス専門スタジオができ、週1~2日ピラティスインストラクターとして働いた。しかし、このスタジオが1年ほどで閉鎖。そのとき、自身でスタジオをつくることを決意した。

本物のピラティスを伝えるため
自身でスタジオ経営を始める